藤岡信勝の「転向」

歴史の再審に向けて――私もまたレヴィジオニストである(栗原幸夫評論集・1 20世紀を読み直す)---藤岡信勝の「転向」
http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/1100.html
投稿者 竹中半兵衛

1962年に日本共産党(民青)に入党したと思われる藤岡信勝が1990年に脱党し「変節」した歴史について言及されています。「共産主義者」の「転向」がおのれ自身との真摯な対決を媒介として根源的な存在について深めてゆくならば、これはスターリン主義との決別として結晶するものであり、「転向」の意味もわかるのですが、そうでない場合28年間も共産党員だったものがなにゆえにいとも簡単にファシズム礼賛に切り替わることができるのか、現代の不思議といわざるを得ません。

ここが重要なのです。
藤岡の場合、湾岸戦争を契機に転向したとしているけれども、眼前にソ連圏が崩壊してゆく事実を見て体よく見限りをつけたに過ぎないのです。このようなものたちが歴史の見直し・修正を主張するのは、この共産党員であって主体的な思考がスターリン主義者として枯渇した思想レベルにあったおのれ自身のうす汚い過去を隠蔽するために過ぎません。過去がばらされ恥を晒す危険が出ればそれだけ声高に批判者を罵倒する。

それゆえに、スターリン主義を包摂する日本共産党さらにはそこから脱党して共産党やマルクスを否定するに饒舌となる人々の意見には眉に唾をつけて聞かざるを得ません。

以下、栗原幸夫のホームページ 「ホイのホイ」
http://www.shonan.ne.jp/~kuri/

から引用。


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http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_1/hyouron_1.html
歴史の再審に向かって

――私もまたレヴィジオニストである――
                            

死者はつねに見捨てられた歴史の彼方で、生者を呼んでいるのです。彼は生者に向って、ぐれーつ、と呼びかけているのです。
――埴谷雄高


ピエール・ヴィダル=ナケは現代の歴史修正主義を包括的に分析した『記憶の暗殺者たち』(石田靖夫訳、人文書院刊)のなかで、最初の「レヴィジオニスト」は、フランスで無実の罪を負わされたドレフュス裁判の「再審」を支持した人たちだったとのべている。このような「再審」というニュアンスで理解されたレヴィジオンであれば、私もまた、レヴィジオニストである。「過去を歴史的に関連づけることは、それを『もともとあったとおりに』認識することではない。危機の瞬間にひらめくような回想を捉えることである」というワルター・ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」の一節に深く同感してきた私にとって、歴史はつねに「いま」から読み直されるべきものなのだ。そのような意味では、再審こそが歴史であり、人間の理念の歴史はこの再審をめぐる階級闘争の歴史だと言うこともできるだろう。
 
先日、埴谷雄高が亡くなった。そして珍しく『赤旗』が死亡記事を掲載した。わずか十五行ほどのベタ記事だが、その経歴のところに「三二年治安維持法違反で起訴され、変節して出獄」とある。いつから共産党が「転向」という言葉を禁句にしてもっぱら「変節」と言い換えるようになったのかつまびらかにしないが、埴谷雄高がヴィジオネールへと変身し、文学思想の歴史に希有な存在となり得たのは、彼がそれまでの自身の革命思想に仮借のない再審を加えてはじめて可能になったのである。また、もう一人の注目すべき転向者である中野重治は、「日本の革命運動の伝統の革命的批判」つまり歴史の再審の道をほかならぬ転向を契機にして歩み始め、「自分の文学観の訂正・変改」を通じて「戦争への非協力」の文学的な地点をつくり出した。彼らにとって転向は、いずれもたんなる反省や悔悟などではなく、また従来の思想のたんなる放棄でもなく、「根源化」であった。転向をすべて変節としか言わない共産党の思考には、依然として「正統」にたいする再審の要求を修正主義として排撃しつづけてきた歴史が生き続けている。

 しかし、言うまでもなく、転向のすべてが、また再審のすべてが、埴谷雄高や中野重治の場合のように積極的評価に耐えうるものであったわけではない。転向が敗北であり、そこに深刻な主体の危機をはらむものである以上、その危機をどのように乗り越えるかによって道は岐かれた。一つは埴谷雄高や中野重治のように、よりラディカルに、より根源の方へと進む道、もう一つは現状を受け入れ権力の方へと身をすり寄せる道である。そして後者は、たんに「処世」の術にとどまらず、根本の所で「正史」あるいは「国史」への屈服としてあらわれるのである。戦前・戦中の日本では、それは言うまでもなく「皇国史観」への忠誠を意味した。

 なにがこのように道を分けたのか。躓きの石はもちろん一つではない。民族あるいは国家という石はけっして小さくはなかった。しかし決定的なのは、権力にたいする自分自身の位置をどのように自覚しつづけたかにかかっていたように思う。

 ナチス・ドイツやスターリン体制下のソ連では、転向という現象は存在しなかった。そこでは、思想の抹殺は肉体の抹殺として実現したからだ。ところが、天皇制下の日本では、一九三三年から三八年までの、つまり「満州事変」以後から「日中戦争」にかけてのわずか五年たらずのあいだに、左翼運動参加者の九九パーセントが転向し、体制に協力することで生き長らえた。なぜ、これほど多くのマルクス主義者が転向し、しかも転向しただけでなく積極的に天皇制権力とその戦争に協力することになったのか。そこにはこの国の特殊な社会構造と思想のあり方が端的に示されている。私はかつて転向論を、日本の近代と近代思想を考えるうえでの「戦略高地」と呼んだことがある(『歴史の道標から』所収、「転向論」参照)が、八・一五の敗戦にいたるまでの天皇制下の日本を考えるとき、このような転向論の視点は不可欠なのである。

 そのような転向論の立場から見てとくに興味深いのは、一九四〇年前後のいわゆる「総動員体制」成立期だが、転向した旧左翼がかつての理論や運動論をほとんどそのままに、新体制のイデオローグとして活躍する姿は、この時期ごくありふれた情景だった。彼らの特徴は、理論の徹底的な「道具」化にほかならない。例を文学にとれば、政治の優位性とか主題の積極性とか党の課題を文学運動の課題にするとかいうような、プロレタリア文学理論の根幹をなした主張は、その「政治」「積極的主題」「党の課題」を戦争や大東亜共栄圏建設や総力戦というようなものに置き換えれば、そのままもっとも忠実な国策文学理論になりえたのだった。「講座派」の最高峰と呼ばれた『日本資本主義分析』の著者・山田盛太郎と『日本資本主義社会の機構』の著者・平野義太郎は、ともに転向し、同じ理論を使って中国や東南アジアの社会経済構造を分析し、「大東亜戦争」の理論化をおこなった。これらの人たちにとって、マルクス主義はどのような立場からも利用できる「道具」でしかなかったのである。はじめに埴谷雄高や中野重治の名前を出したのは、すべての転向者がこのようなものではなかったということを、つまり「再審」もまたひとつの闘争の場であったことを言いたかったからである。

 現在の「歴史修正主義」を考えるのに、なんで転向問題から話を始めるのかといぶかしく思う人もいるかもしれないが、もうすこしこの問題を考えてみたい。なぜなら、歴史の再審は、当然のことながらそれをおこなう人間の歴史意識の「訂正・変改」なしにはありえないからである。(後略)
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by pace2005 | 2005-02-07 12:06 | 自由と民主主義
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